この世で最も地面に近いハウス
超俗テクノの真髄 ポンチャック・ディスコ
湯浅学
デラックスでてんこ盛り、 しかも簡便。 これは大韓 人気質にとっては大いに好まれるものである。
“ポンチャック” という言葉自体は演歌系トロット のリズムの“ポン”と“チャック” の擬音表現で、 そ れが演歌系歌謡曲の愛称として用いられてきたもので ある。
1981年、 スターズ・オン・ 45 (オランダのプロデ ューサー、 ジャープ・エガーモントによるプロジェク ト)による60~70年代ポップの数々をディスコ・ビ ートによってメドレー化した作品が世界的大ヒットし た。 もちろん韓国でもこれは親しまれ、 韓国版のナツ メロや民謡のメドレーがいきなり流行するところとな った。 口火を切ったのは名歌手の金蓮子 (キム・ヨン ジャ)で、彼女の 『歌の花束』 は、LPの片面に20数 曲づつがメドレーで歌いまくられたものだった。 これ は歌手のパワーを如実に知らしめるものだった。 もと もと、 宴会で知っている歌をかたっぱしからノンスト ップで参加者全員で歌い継いでいくという伝統的盛り 上がり術が伝統として大韓民国にはある。 それがとき ならぬスターズ・オン・45の流行、 調子のいいディス コ風のアレンジなどとあいまって流行歌シーンによみ がえったのだ、と見ることもできる。
流麗というより、 流れつづけることもまた大韓人の 大いに好むところである。
81年の金蓮子のヒット以来このメドレー歌謡はジャ ンルとして確立され、 作品が乱造されるようになって いく。しかもカセット専門のレーベルが続々とこのジ ャンルにも参入、 便利でお手軽なカセット市場におい てもメドレー歌謡は台風の目となっていく。 さらに80 年代中頃には、 エレクトーンやプリセットのリズム・ ボックス付シンセサイザーで伴奏をつけただけのメド レー歌謡が続出、たちまちこれは大増殖していった。 なにしろこれなら安い早い楽である。 歌いながらエレ クトーンを弾く奴ならひとり、 そうでなくとも伴奏と 歌手の2人だけでどんどん作品ができる。 レゲエのス レンテンと同様である。 もともと大韓にはエレクトー ンやモーグ・シンセサイザーなどで軽音楽を演奏した ものが、“電子音楽” と称されて70年代前半から様々 に製作され売られてきた、という伝統もある。 電子と
メドレーの結合はむしろ大韓史上の必然である、と見 るべきであろう。
85年ごろには、 ポンチャックという語はこうした電 子メドレー歌謡全般の総称となる。 電子メドレー歌謡 はなにもディスコだけではない。 ブルース、 ジルバ、 スウィング、 トロットなど、プリセットの表示にある リズムがそのまま音楽 (ビート) の種類となるだけの 話である。 しかし主流はやはりポンチャック・ディス コである。 それは、 ポンチャック・ディスコのハイ BPMものにある覚醒、 眠気ざまし作用が、 ポンチャッ クの重要なユーザーであるタクシー、バス、長距離ト ラック運転手さんたちにたいへん愛好されたからであ る。 彼らは愛聴するというよりは、 耳から三半器官へ の刺激を享受するために、 ポンチャックを買うのであ る。 聴けるものより、 効くものである。 そのためにサ ウンド面では、いかに効くか、 が追求されてきたので ある。 その点では90年代のテクノと同様である。
今回こうしてCD化した作品はすべて、 TGR (テー ガン音盤)のもので、その制作はマンモスというサウ ンド・チームによるものである。 ポンチャック界は早 い安い楽の世界であるがゆえに、人気者以外は歌手名 も極小さく(ときにはクレジットのないものもある) しか記されておらず、 そのクレジットは実にいいかげ んなものであり、しかも生産の回転も速いので、 「つい うっかり記入し忘れたわい」というものも多い。それ ゆえこうして、 制作チームがその名を刻みつづけた、 ということはほとんど唯一無二のことであり、まして マンモスだけで実に200件近くを約8年に渡って作り つづけたというのは、ポンチャック界の奇跡という以 外にない。 スレンテンにおけるプリンス ジャミーで あり、テクノにおけるジェフ・ミルズに比肩しうるの が、ポンチャックにおけるマンモスなのである。
ポンチャックはここ93年ぐらいから生産量の面では やや激少傾向にある。 しかし、 カセットを買わずとも、 人々はエレクトーンと伴奏者のある歌声酒場や野原の 宴会やバスの中で、 ポンチャック ディスコ精神を爆 発させ今日も日ごと夜ごとメドレーで体内麻薬を激流 の如くドバドバドバっと分泌させまくっているのであ る。ポンチャック、 それは大韓ホルモンの素である。
「続・新風ハイパーな俺
軽い足取りではあるが寄り道も限りなく頻繁に行わずにはい られない。 「おう、元気?」と声かけられれば、 「もちろんです よ」 と答えながらふらふらと揺れながら去っていく。 人生の回 転数をまちがえてしまった男。
李博士は89年にマンモスの強力新人としてデビューして以 来、 たちまちのうちにTGRを代表する大スターになった。 この 89年だけで 『シンパラン 第123集』と『ユヘンガポン チャック』 『クッコリ」 の計6作がリリースされている。 いくら お手軽テイクイットイージーを身上とするポンチャック界にあ ってもこれは破格の扱いであった。 李博士のカクソリ的手法を 大胆に取り入れしかも高速で突走り、 これでもかと盛られたく すぐりで聴く者をぐにょぐにょでんでろりんにしてしまうスタ イルはたちまちのうちポンチャック界の主流となった。 “シン パラン” とはもともとはこうした歌謡芸のときに入れられるあ いの手、掛け声の一種であるが、新(シン) 風 (パラン)、 ま さしくポンチャック界を席巻した新風そのものだったのであ
る。
このアルバムは『シンパラン』の第3集としてリリースされ たもので、民謡ア・ゴーゴーという趣き。 「江原道アリラン」 「恨五百年」 「ペンノレ」 「シンゴサン打令」 「タル打令」 「セ打 令」 「密陽アリラン」 「ハンカンス打令」「クンパム打令」 「沙鉢 歌」などが飛び出す。 イ・パクサはこの後、90年からオアシ ス・レコードに移籍、91年8月までに6作をリリースしている。 さらに93年にはムンハレコードに移り2作を発表後、 94年 にも 1作ラップを取り入れたやつを久々にかましま くり、95年9月には新作もリリースするという不滅ぶり。特に オアシス時代の第3集はバックにブラス・バンドを起用しての 意欲的名作として名高い。 残念ながら現在は廃盤である。 それ にしても、いかにスタミナ、ホルモンの国とはいえ、この天然 の覚醒を現代医学はどう解明してくれるというのか。 返答を待 つ。
1995年8月
監修: 幻の名盤解放同盟
発売 : Pヴァイン・レコード株式会社